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宮本百合子の作品2

| 日本文学 |

 洋傘だけを置いて荷物を見にプラットフォームへ出ていた間に、児供づれの女が前の座席へ来た。反対の側へ移って、包みを網棚にのせ、空気枕を膨らましていると、
「ああ、ああ、いそいじゃった!」
 袋と洋傘を一ツの手に掴んだ肥った婆さんが遽しく乗り込んで来た。
「早くかけとしまいよ、ばあや、そら、そこがあいてるわよ、かけちゃいさえすればいいから……よ」
 プラットフォームに立って送りに来た二十七の町方の女が頻りに世話を焼いた。
「ああここにしようね――御免なさい」
 前の座席には小官吏らしい男が一人いるだけであったが、三等の狭い一ツの席に肥った私、更に肥った婆さんが押し並ぶのには苦笑した。十一時四十分上野発仙台行の列車で大して混んでいず、もっと後ろに沢山ゆとりはあるのだ。婆さんの連れは然し、
「戸に近い方がいいものね、ばあや、洋傘置いちゃうといいわ、いそいでお座りよ。上へのっかっちゃってさ」
 窓から覗き込んで指図する。婆さんは、けれども矢張り洋傘を掴んだまま、汚れた手拭で顔を拭いた。
「降りゃしないかね、これで彼方へつくのはどうしたって日暮れだ」
「大丈夫だよ、俥でおいでね、くたぶれちゃうよ。一里半もあるんだってからさ」
「お前傘は?」
「いいよ、平気」
「どうせ家へかえるんだもんね」
「あああ家へかえるんだもの」

 降りたくても降れないと云う様な空模様で、蒸す事甚い。
 今朝も早くから隣の家でピアノを弾いて居るが気になって仕様がない。
 もう二三年あの人は、此処に別荘を持って居て、ついぞ琴の音もした事がないのに、急にピアノがきこえて、それが又かなりよい音だ。
 おとといの晩から、何かして居ても、聞えると、一寸手をとめて耳をすます。
 食堂の出まどに腰をかけて、楓の茂みの中から響いて来る音に注意すると、Haydn のものらしい軽い踊る様な調子がよく分る。
 弾手は男かしら女かしら。
 女の人にしては少し疎雑な手ぶりがあるが、いつの間にとりよせたか、来たかしたんだろう。
 私は、そんな事をかなり真面目に考えて居た。
 その音をきいて居ると、急に、自分のピアノのFaのシャープの出ないのが気になり出す。
 雨がつづいて居る時分からああなり出したので、天気がなおるとよくなるまいものでもないと放って置いたけれ共、一向によくならない。
 今日はどうしても高井にたのまなければならないからと思って電話をかける。
 声の太い頭の鈍そうな男が出て、私が早口だと見えて、
「おそれ入りますが、どうぞ、
 もう少しゆっくりおっしゃって下さい。
と云う。

宮本百合子の作品

| 日本文学 |

 日本の女性が、両性の友情の間で紛糾を生じがちなのは、我知らずそこに、自分たち日常の現実にあらわれている関係のきまった男との間に在るいきさつとは異った気分、より圧迫の少い、女としてより負担と責任との軽い、それゆえより人間として自分を溌剌とさせると感じられる気分だけを主観的に求めて、友情というものの責任観を十分身につけていないところから生じていると思う。
 男性たちにしても、女が生きて来たと同じその歴史のうちで生長して来ているのだから、同じような感情のあいまいさや節度の不分明なところを弱点として持っているのは当然である。紛糾は女性が自分の感情の本質をはっきり知っていないことからひき起るばかりでなく、男性が両性感情でまだ未熟粗野であることからもおこって来ているのである。
 河合栄治郎氏が余程以前アメリカに留学しておられた時分、友人であった一人のロシア生れの女性が、非常によく両性の友人としての交際に訓練されていて、そのために氏は多くのことを学び、男と女との間に友情がまっとうされるためには守るべきいろいろの限界が在ることと、そして、それを守る節度によってますます友愛はそのものとして清潔に美しくあり得ることを知ったよろこびを語っておられたことがあった。
 友情というものはただ男と女とが組みになって遊んでいるというよりも深い本質に立つものである。感情の三分の二ほどは恋愛的なものだが、その責任を互にさけて、対外上にも友情の仮面を便宜としているという風な自堕落なものでもないと思う。

どうかして、難しい小姑という地位に置かれないうち、自分だけ幸福に見すてられたと妹の島田を見て思わないうち、晨子の運命を明るくしたいという親心を、日下部太郎は同情を以て推察した。彼は、広い交際の網目を彼方此方と注意した。そして、彼が牛津留学時代、その父親と親しくした今度の青年を見出したのであった。
 高畠子爵は、青年が有望な外務省書記官であるのを喜んだ。夫人は、爵位のない先方が大槻伯爵の親戚であるので安心した。
 日下部太郎は今晩、その礼心として内輪の招待を受けたのであった。
 書斎に行くと、日下部は待っていた小間使の手をかりず、気軽に自分で椅子を煖炉の前に持ち出した。
「さあ、どうぞおこのみの席におつき下さい。御婦人がたは火のお近くに」
「いや君、それはいけない」
 子爵が真面目くさって日下部を遮った。
「我々は細君方より少くも五つや六つは年上だ。年長者の特権というものは、煖炉の近くで最もいい場所を占めるにある。どれ――では失礼」
 子爵は、皆を笑わせながら、どっかり安楽椅子に納まった。珈琲とキュラソオとが運ばれた。日下部太郎は、婦人達に向って二言三言毒のない冗談を云い、子爵と愉快そうに酒の品評を始めた。

 先達て「リビヤ白騎隊」というイタリー映画の試写を観る機会を得た。原作はフランスのジョセフ・ペイレのゴンクール受賞作品だそうで、ファッショ紀元十五年度のムッソリーニ賞杯獲得映画である。筋は単純なものである。クリスチアーナという女の愛に失望したマリオ・ルドヴィッチ中尉が従来の生活環境と感情とから脱却するために、アフリカのリビヤへ赴きそこの守備隊に加って土民征服に出かける。この経験から生きる目的を一変させた中尉ルドヴィッチは後を慕って来たクリスチアーナにむかって、自分はここから去ることは出来ない、去る気もないと彼女の愛をも拒む。それが終りとなっているのである。
 私ども素人の目にはクリスチアーナに扮したランツィという女優も貧寒であるし、ルドヴィッチ中尉に扮した俳優チェンタに特色も認められなかった。概して云えば技術的に後れている平凡な軍事的沙漠映画の印象であった。それがファッショの国では恐らく名誉なものであろうムッソリーニ賞杯を得ているのは何故であろうか。
 広く知られている通りイタリーのアフリカ植民地政策の活溌さはエチオピア問題を見ても明かであり、リビアは最近急速に戦時軍需資源の獲得地となっている。鉄、ニッケル、ジュラルミン等の原鉱を多量に生産することが分ったそのためにイタリーは附近の土民との間に砲火を交えることを敢て辞さない。そして、外国の新聞はこの戦闘行為の性質を解剖して、その背後の勢力を考えるとこの白沙漠に於ける戦闘はスペインの内乱の如き性質を持つものであると言っている。
 今やイタリーにとってアフリカの植民地問題は従来のような人口問題の解決法としての域を遙かに脱している。ムッソリーニは権力の確保のためにも資源リビヤへの大なる熱中を示している。そして、アフリカへ! 新しいラテン文化の地へ! というスローガンを文化科学の全面に押し出しているのである。